大切な家族が病気になったとき、あなたはどうやって支えますか?
誰にも頼れない状況で介護と仕事の両立、どう解決しますか?
この記事はママが肺癌になり亡くなるまでの記録を綴ったものです。
診断の日を境に私の人生は一変しました。
介護と仕事、そして飼い猫ハナへの責任。
誰にも頼れずに不安な毎日。
最初にお断りさせていただきます。
この記事はかなりの長文です。
内容は皆さんに好事例をお伝えするものではありません。
この記事でお伝えしたいこと。
それは一人でできることには限界があるということです。
“もっとできることあるかもしれない ”
”こうした方が良いのではないか”
病と闘う家族を持つと後悔と無力感に押しつぶされそうになることもあるでしょう。
選択には正解はなくてその時は誰もが全力なのだと思うのです。
その選択肢に自分だけが頑張らないということも取り入れてみませんか?
一時的に仕事を休んだり、民間のサービスを活用したり。
思い切って相談すれば助けてくれる人がいるかもしれません。
私はこの選択が遅くなったせいでママに可哀相な闘病生活をおくらせてしまいました。
全て一人で抱え込んで結局何もできなかったのです。
私の奮闘と後悔を綴った記録が失敗例として皆さんの参考になることを願っています。
母の入院。一人っ子が感じた小さな胸騒ぎ
最後のお出かけ
「風邪をひいたみたいだから、今日はコナミお休みするね」
咳をしながらママが起きてきました。
その日は土曜日の朝。
近所のジムに行くのが私達の週末の日課でしたがその日は一緒に買い物に行く事に。
「お給料がでたからお昼はおごるよ」
ママお気に入りのお寿司屋さんで海鮮丼をご馳走する事になりました。
「どんな時でも食欲はあるのよね」
ビールを豪快に飲むママ。
風邪をひいているようには思えません。
食後は私の提案でウィンドーショッピングへ。
以前から欲しかったコートがセールになっているのを見つけてご機嫌に会計する私を、ママは少し離れたところで見ています。
「ウィンドーじゃないじゃん」
そう言いたそうな顔で。
これがママとの最後のお出かけとなりました。
突然の入院
「咳が止まらないから一応病院に行ってみる」
月曜日の朝、出勤する私を見送ってくれるママと次に会えるのは5日後でした。
「入院する事になったから」
その日の夕方、勤務先にママから電話が入りました。
個人情報をあつかう私の会社では仕事場への携帯持ち込みを禁止されていたからです。
「詳しくは後で話すから、家に帰ったら携帯に電話して」
そう言って電話を切っていきました。
当然仕事に集中できるはずありません。
途中で帰る事もできず、終業後帰宅してすぐにママの携帯に電話をしました。
かかりつけの病院で肺に陰があると言われ、紹介された呼吸器疾患専門の病院へ行きそのまま入院することになったというのです。
「洗濯物は取り込まなくちゃいけないし、ハナにご飯をあげなくちゃいけないしで忙しかったわ〜」
武勇伝を話すように笑うママ。
私は会社を休んで一緒に病院にいかなかった事を後悔しました。
すっかり日が落ちて風が冷たくなる時間です。
独りで知らない病院に向うのはどれだけ不安だったか。
バタバタと家事を済ませてバスに乗るママの姿を想像して胸が締め付けられる気持ちになりました。
「とりあえず検査入院だし心配しないで。週末に来てくれれば良いから仕事に行きなさい」
入院なんて本人が1番びっくりしているはずなのに、仕事が忙しくて休めない私を気遣ってくれたのだと思いました。
小さな胸騒ぎ
週末必要な物を揃えて病院に行くと思ったより元気なママが起きて待っていました。
病院の休憩室でお昼を食べてから、久しぶりに会うママと夕方まですごしました。
「来週の水曜日会社休める?」
帰る時間になってママが珍しく聞いてきました。
検査の結果が出て先生から説明があるとの事。
「家族の方にも聞いて貰いたいと言うのよ」
ドキっとしました。
8月に胃癌がみつかり内視鏡の手術を受けたばかりでした。
「もう大丈夫ですよ」
医師の言葉にハイタッチで喜んで3ヶ月しか経っていません。
「じゃあ、その時は美味しい物を買ってくるね」
嫌な予感を振り払って病院を出ました。
大丈夫。
大したことないに決まってる。
根拠のない自信に助けて貰うしかありませんでした。
11月最後の週末。
ママの誕生日を10日後に控えた日の出来事でした。
一人っ子の不安。誕生日を目前に母に告げられた突然の肺がん告知
告知の日
検査の結果が出る日、家を早めに出て家電量販店に立ち寄りました。
70歳の誕生日プレゼントにポータブルブルーレイプレイヤーを贈る事にしたからです。
韓流ドラマにはまっているママの為に、自宅のレコーダーからディスクに保存して持って行くことにしました。
誕生日当日は一緒に祝えないので、デパートの地下で鰻を買って病院に向かいました。
「鰻?やった!」
病院のお昼にでたごはんにのせて嬉しそうに食べています。
検査の結果を聞く時間までプレイヤーの使い方を説明しながら韓流ドラマを見て待っていました。
その日はとても良いお天気でベッドの側の窓からは柔らかい日差しが入ってきます。
「お話のお時間になりましたよ」
ついウトウトしてしまい、看護師に声をかけられて目を覚ましました。
「お待たせしました」
診察室に入ると担当の先生が待っていました。
学生の頃の三者面談に似た緊張感の中、検査結果の写真を見せられました。
肺癌。
ステージ2でした。
心のどこかで”まさか”という気持ちがあったので、一瞬何を言われたのかわかりませんでした。
今後の治療方法について説明をする先生の話も全く入ってきません。
そんな私の横には妙に落ち着いているママがいました。
既にママは診断結果を知っていた事をあとから知りました。
家族の方と一緒にと勧める先生に
「私が先に聞きますから」
と言ったそうです。
動揺する姿を私に見せないように。
こんな時でさえ私の気持ちを優先して考えてくれていたのです。
8月に胃がんの手術をした事を伝えてその時の状況を確認してもらう事になりました。
癌は治る可能性が高くなっていると説明し、来月から抗ガン剤治療を始める事になりました。
「年末には退院できますよ。頑張りましょう」
若い先生は明るく言いました。
「先生よろしくお願いしますね」
それ以上に明るく返すママ。
病院を出ると外はすっかり日が暮れていました。
もうすぐクリスマス。
キラキラした街は楽しそうな家族づれで賑わっていました。
退院は年末なのでママは病院でクリスマスを迎えることになります。
「夕焼けに向かって車を運転していると、なんだか涙がでてくるのよ」
認知症の祖母に会いに行った施設の帰り道にママが言っていたのを思い出します。
バスの窓から見える夕日がにじんでみえました。
グンちゃんより五郎さん
平日は仕事で入院中のママと話せるのは昼の休憩時間と消灯時間迄の30分程。
週末はお昼持参でママの着替えを病院へ届けて夕方迄過ごします。
家を留守にする時間が長くなりハナをひとりにさせる事が多くなりました。
「ごめんね。良い子でお留守番していてね」
そう言って出かける飼い主を文句一つ言わずに見送ってくれます。
この頃からママはあんなに大好きだった韓流ドラマを見なくなりました。
“ハラハラでドロドロ”
昭和を感じる内容が魅力ですが病と戦うママには少し重く感じたのかもしれません。
そこで「孤独のグルメ」を録画して見せたところ、すっかりはまってしまいました。
松重豊さん演じる井之頭五郎が、毎回気持ち良い勢いで食べまくります。
「今俺は何を食べたいんだ」
五郎さんが自分の思うままに立ち寄るお店は、ママが経営していたカレーショップのような小さなお店も多く登場するので懐かしさもあったのでしょう。
じっとしている事が苦手で退屈が大嫌い。
そんなママにバックナンバーを全て録画して持っていきました。
「なんだか私までお腹がすいてきちゃったわ」
笑いながら言うママに私の方が元気を貰いました。
退院の日
退院が決まり自宅に酸素供給機を設置する事になりました。
酸素不足を補う為に鼻からチューブで酸素を吸入する機械です。
病院でもベッドから離れる時には、携帯のボンベを常に転がしながら移動していました。
少し大きめの空気清浄機の様な供給機が届きました。
家中どこへでも移動できるように長めのチューブが付いています。
酸素吸入中は火気厳禁なので、IHコンロや電気ケトルも用意。
素敵なニットを見つけたので、退院の時に着て貰おうと購入しました。
こうして準備をしていると、やっとママが退院して帰ってくるんだと嬉しくなります。
考えてみれば、私には一人暮らしの経験がなく家には必ず家族がいました。
わずかひと月足らずなのに、ママ不在の部屋は物凄く広く落ち着かない空間でした。
退院当日病院に迎えに行くと、先生から帰宅後の注意点について説明がありました。
感染症には感染症には充分に気をつけること
なるべく酸素を吸入して生活する事
薬は忘れずにのむこと
それ以外は特に制限がなく、いつも通りの生活で良いとの事でした。
「来年は抗ガン剤治療が始まりますからお家でゆっくりすごしてください」
先生の笑顔に見送られながらタクシーで帰宅しました。
「ハナちゃんごめんね」
大好きなママに抱っこされてハナも嬉しそう。
久しぶりの我が家で一緒にお昼を食べました。
正月の買い出しの話をするママは癌である事を忘れるくらい元気です。
いつも両手に大荷物を持って帰ってくるのが年末の恒例行事でした。
「買い物は私が行ってくるから」
年末で混み合う場所にママを連れて行くわけにいきません。
買い出しメモを見ながらカートに入れていくと想像以上の量になりました。
「今日はもう定員になってしまったんです」
なま物以外は配送してもらうつもりで会計を済ませ受付に行くと、申し訳なさそうに言われました。
お店は自宅前の道路を渡ったすぐ目の前にあります。
何回か往復する事も考えましたが、箱買いしたビールや水はとても持ち帰れません。
「お近くでしたらカートをお貸ししますよ」
カート上下に山のように入った物をみつめて頭をかかえる私を気の毒に思ったのか、お店の方が声をかけてくれました。
恥ずかしいなんて言っている場合ではありません。
「すぐにお返ししますから!」
お礼を言ってガラガラと結構な音をたてながら山盛りカートを押してお店をでました。
ネギや醤油がスーパーのかごに入った絶賛買い物中の状態で信号待ちをします。
奮発して買った冷凍の蟹もむき出しのまま入っています。
「我が家の晩御飯は蟹鍋ですよ」
と言っているようなものでした。
扉の前でカートと共に立つ娘を見てママは全力で大笑いしています。
「お店の方にお礼を言ってね」
カラになったカートを返しに行く私を見送りながらしつこく笑うママでした。
来年も
お酒を飲みながら紅白を見て過ごす大晦日。
ゆく年くる年の鐘の音でお互いのグラスが空でない事を確認します。
「今年もよろしくお願いします」
改めて乾杯して挨拶をする。
もう何年も繰り返してきた二人の新年の迎え方です。
今年も同じ。
その事がこれほどまでも幸せだと感じたことはありません。
いつも私の気持ちを最優先に考えてくれるママ。
いつも明るくふるまう彼女にいつも甘えていました。
“これからはもっと強くなろう”
この先さまざまな事が起こっても癌と戦うママを全力で支えられるように。
ひと月ぶりのお酒に少し酔ってハナを抱きながらうたた寝するママを見ながら思いました。
来年も一緒にゆく年くる年の優しい鐘の音を聞けると信じて。
抗がん剤治療開始。親離れできない一人っ子の孤独
年があけて
「今年もよろしくお願いします」
普段と変わらないお昼を食べながらの挨拶。
“昼間はお酒を飲まないお正月”
このスタイルになってもう10年経つでしょうか。
去年は元旦から営業しているジムへ行ったことを思い出します。
食後はママの体調も良いので近所のスーパーへ行くことにしました。
これからはいつも酸素ボンベと一心同体の生活です。
片手がふさがる不便さに加え酸素の残量にいつも注意していなくてはなりません。
早く慣れるためにも人の少ない元旦の昼間を狙って外出の練習をすることにしたのです。
「沢山は買えないわね」
ママが笑って言いました。
店内に入ると顔見知りの店員さんを見つけて立ち話をはじめます。
「しばらく入院していたのよ」
まるで旅行から帰ってきたかのように話しています。
そんなママを見ながら改めて社交性の高さに感心させられました。
一緒に通っていたジムでも私より若い会員の方やスタッフといつも楽しそうでした。
私は昔から人見知りです。
いつもママがコミュニケーションをとって私と人とを繋いでくれていました。
お陰で私は直接人と関わらなくてもなんとかやってこれたのです。
“ままがいなくなったら私は誰からも相手にされなくなる?”
頭の中の妄想を振り払うように思いっきり頭を振りました。
再入院
年末年始の休みも終わって仕事が始まりました。
今週の水曜日は抗がん剤治療のためママは再び入院することが決まっています。
抗がん剤は3〜4週を1サイクルとして4〜6サイクル繰り返す予定で今回はその初回となります。
当日の朝会社を休めない私はタクシー乗り場までママを見送りました。
運転手さんに荷物を預けて座席から手を振るママを見ながら、一緒についていかなかった事を後悔します。
“又一人にしてしまった”
“どうして仕事を優先してしまったのだろう”
“ママには私しかいないのに”
そんな事ばかりを考えて一日を過ごしました。
帰宅してすぐにママの携帯へ電話すると
「大丈夫。週末も無理して病院にこなくて良いからね」
不安なはずなのに明るく言います。
抗がん剤はがん細胞だけでなく正常な細胞にも作用するため感染症にかかりやすくなります。
それ以外の副作用の心配もあるので、2週間以上は入院して様子を見ることになりました。
安心できる場所
仕事がある平日は電話で会話、 週末は病院へ通う生活が戻ってきました。
「又出かけるの?」
と言いたそうにハナが足元から見上げています。
「ごめんね。なるべく早く帰ってくるからね」
後ろ髪をひかれながら家を出ます。
お弁当を持参してお昼を一緒に食べるのが週末の日課になりました。
お弁当と言っても冷凍食品を温めて詰めるだけ。
あきれたママがきんぴらのレシピを教えてくれました。
作って持っていくと
「上手にできてる」
と高評価。
「甘くて美味しい」
お見舞いに持っていった苺1パックをペロッとたいらげるママを見て、ふと胸が熱くなりました。
“こんなに果物が好きだったっけ”
次々と苺を口に運ぶ姿を見ているだけで嬉しくなります。
「来週も買ってくるから」
果物ひとつで元気になるならもっと買ってきてあげたいと思いました。
会社の話をしたり、ドラマやテレビを見ながら夕方まですごします。
病院を出る時はいつもエレベーター前まで見送ってくれるママ。
ドアが閉まってママの顔が見えなくなりました。
この瞬間がいつもせつなかった。
家が大好きなママを病院に一人残してしまうこと。
すっかり日が暮れた駅までの道を歩く私も又一人。
できる限りママの側にいたかった。
“40歳を過ぎても親離れできないでいる”
恥ずかしいけれど仕方がありません。
生まれてからずっと、ママと一緒に過ごす時間が私の安心できる場所だったからです。
これからは私がママを守り支える存在になっていかなければなりません。
“本当に私一人でママを支えられるのだろうか?”
“仕事と介護をどうやって両立させればいいのだろうか?”
考えれば考えるほど不安は日増しに大きくなっていきました。
神様。
何があっても動揺しない鉄の精神力を私にください。
私しかいないのに。母の苦しみを前に立ち尽くす一人っ子
できることは全て
この日は1回目の抗がん剤効果が聞けるというので退院していたママと一緒に病院を訪れていました。
「少し癌が小さくなっていますよ」
先生が笑顔を見せながら言いました。
もちろん嬉しいことに間違いはありません。
でもそれはまるで長い受験勉強の末に1次試験を通過した時のような感覚でした。
達成感はあるけど、まだゴールではないという気持ち。
これで終わりではなく、まだ次がある。
喜びと同時にこれからも気を緩めずに戦い続ける覚悟が必要だと感じた瞬間でした。
癌に良いと聞けばどんなことでも試しました。
たとえば無農薬野菜を取り入れること。
近所には取り扱う店がなくインターネットで定期便の利用をはじめました。
飲む水だけでなく料理に使う水も全てミネラルウォーターに変えたこともその一環です。
この頃からママはソーセージやハムといった加工食品も食べなくなりました。
本当に効果があるかどうかよりも、できることはなんでもやろうという気持ちでした。
治療は医者にしかできません。
ママの辛い症状を私が代わってあげることもできません。
何もできないジレンマを何かで埋めたかったのだと思います。
一人で挑んだ白内障手術
私は若年性白内障と診断されていました。
遠くも近くも目えづらくて検査をしたのは8月。
「絶対に手術したほうがいい」
白内障の手術経験があるママに強く勧められました。
両目の手術をして世界が変わったのだそうです。
「自分の顔の皺が見えすぎて嫌になっちゃう」
と鏡を覗くママは嬉しそうでした。
決心して手術をすることになったのですが生憎予約でいっぱい。
半年まって今月末に右目の手術をするため会社の休みを取っていました。
手術の当日。
私は一人で病院に行くことにしました。
付き添いとしてママが一緒に行ってくれる予定でしたが、酸素ボンベの残量や感染症が心配だったからです。
来週ママは2回目の抗がん剤治療を控えていました。
「本当に一人で大丈夫?」
手術は日帰りで術後は片目をガーゼで覆って帰ってこなければなりません。
心配そうにママが言いました。
「大丈夫、大丈夫。すぐ近くなんだから」
と答えたものの、胸が締め付けられるようにドキドキしています。
「大丈夫だから」
ママが私に何度も返したセリフです。
自分の情けなさに呆れながら家をでました。
病院は自宅から5分とかからない商業施設の中にあります。
目を大きく開くための目薬を何回か点眼してもらって待合室で待っていると
「手術室へどうぞ」
と名前を呼ばれました。
緊張はピークに達しています。
「10分ほどで終わりますからね」
ベットに仰向けになって手術が始まりました。
局部麻酔で意識がはっきりしているだけに恐怖心が高まります。
手術の間はプールの中で目を開けているような感覚で痛みは全くありませんでした。
待合室で経過を見てから帰宅後の生活について説明を受けます。
直接目に水が入るような洗顔や洗髪は1週間できないと聞いていたので、肩下まであった髪をバッサリ切って準備していました。
“冬でよかった”
手術が半年後に延びたことを幸運に思いました。
会計を済ませて片目で病院を出ました。
なるべく人が少ない道を選んでゆっくり歩いていると、杖をついたおばあちゃんが私を追い越していきました。
「どうだった?」
帰宅するとママが顔を覗き込んできます。
いったいどっちが病人なのかわかりません。
1週間はお酒が飲めないので何年振りかの休肝日です。
早めに夕食を済ませてテレビを見ているうちにすごく疲れてきました。
片目生活が想像以上に不自由なことを実感します。
「先に寝るね」
とママに声をかけてベッドに入りました。
翌日病院でガーゼを外してもらって不便な片目生活から解放されました。
片方だけが良く見えてバランスが悪いので手術をしていない方の目につけるコンタクトを処方してもらいます。
今後の1週間はゴーグルの様な専用の眼鏡をつけて生活しなくてはなりませんでした。
眼鏡の上から見える方の目を手でふさいでみると景色が黄色く見えました。
両目がこの状態では見えづらいのも当然です。
”世界が変わるかな”
昨日はあんなに不安だったのに、2回目の手術が待ち遠しくなっていました。
自分への怒り
白内障の手術から3日後には2回目の抗がん剤治療のため再び入院する予定でした。
私も一緒に病院へいくつもりだったので、出かける前にシャンプーをしてほしいと頼みました。
水をはっていない風呂ガマに私が入って上を向く美容院スタイル。
これなら顔に水がかかりません。
ママが白内障の手術をした時にも私がシャンプーをしてあげたのを思い出します。
病院につくと呼吸器科の部屋が満室で別の科の部屋を案内されました。
丁度夕食時間だったので食事を済ませるのを見届けてからひとりで帰宅。
再びハナとの共同生活がはじまります。
この頃からハナは誰もいない方向に向かって、急に大きな声で泣くようになりました。
「ニャー」というより「ギャー」に近い泣き方です。
声をかけても泣き止まず抱きかかえるとビクッとして黙り込みます。
”目が見えていないのかもしれない”
そう思ってハナの顔の前で手を振ると反応します。
昼間はいつも一人にしてしまっていることがストレスになっていたのでしょうか。
仕事を休めばハナを一人にすることは避けられますが、現実的に収入を得るには働き続けなければなりませんでした。
「ママはすぐに帰ってくるよ」
鼻先をなでるとハナは目を閉じて静かになりました。
翌日も病院へ。
ママのリクエストでお気に入りのパンを買っていく約束になっていました。
ナースステーションに行くと昨日とは別の部屋に変わったとの事。
聞いた部屋番号のドアを開けるとそこは個室でした。
個室といっても部屋の真ん中にベットがあるだけの寂しい空間。
病室というよりトランクルームのようでした。
4人部屋が満室でこの部屋しか空いていなかったというのです。
「空きしだい移してもらうようにお願いしてあるの」
少しションボリしています。
それでも買っていったパンを渡すとすぐにいつもの笑顔に戻りました。
ハナの様子を話すと
「早く元気になって家へ帰らなくちゃね」
と言いながらふと遠くを見つめました。
この日も”孤独のグルメ”を見ながら夕方まですごしました。
「明日のお昼は何が食べたい?」
病院食に飽きてきていたママへ尋ねました。
休みは明日まで。
仕事が始まれば会えるのは週末だけになります。
時間の許すかぎり側にいてあげたいと思っていました。
「助六寿司が食べたいな」
この食欲に生きる力を感じます。
そういえば五郎さんがお寿司を食べるシーンがあったっけ。
「助六ね。明日楽しみにしていてね」
と答えておいて
“助六?どんなお寿司だっけ?”
と考えながら病院を後にしました。
「お母さんがお待ちですよ」
翌日ナースステーションへ声をかけると初めてみる看護師さんがニコニコして出迎えてくれました。
今日は日曜日。
お見舞いの方も多めです。
病室という名のトランクルームに入るとママはベットから起きて本を読んでいました。
「お寿司買ってきてくれた?」
昨日インターネットで調べて助六寿司が海苔巻きとお稲荷さんの詰め合わせだったことを思い出しました。
「ありがとう。無性に食べたくなっちゃって」
お茶と一緒に手渡すと豪快に食べ始めました。
いつもながら美味しそうに食べる姿に感動すら覚えます。
2時間程経ってからでしょうか。
「ちょっと横になって良い?」
ママが手でお腹のあたりをさすりながら眉間に皺を寄せています。
初めのうちは食べすぎかなと思って様子を見ていましたが症状はひどくなるばかり。
ナースコールを押して看護師さんを呼びました。
しばらく背中をさすってもらっても痛みはおさまりません。
痛み止めの薬をもらって飲ませると少しづつ落ち着いてきたようです。
ママが私の前で不調を訴えるのはこれが初めてでした。
きっとこれまで何度も痛みに耐えて一人で我慢してきたのでしょう。
その事に気がつかなかった自分への怒りが溢れてきました。
“なんて頼りない娘なんだろう”
自分がどれだけ無力なのかを思い知らされました。
父や兄弟姉妹がいれば家族で支えることができます。
私にはそれがありません。
一人っ子の私はママにとって頼れる唯一の存在なのです。
“私よもっと頑張れ”
“もっともっと強くなれ”
それだけが頭の中をぐるぐる巡っていました。
最後まで一緒に 。一人っ子としての覚悟
進む病
退院後のママは横になっている時間が徐々に長くなってきていました。
食欲もなくなってきてお酒もあまり口にしません。
ある夜ママの声で目が覚めました。
部屋に入って明かりをつけると苦しそうに肩で息をしています。
私にはどこがどんな風に苦しいのかがわかりません。
薬を飲んでも症状がおさまらず救急車を呼びました。
住所を告げる声が自分でも驚くほど震えています。
病院に到着しママは治療室へ。
私は待合室で待たされました。
「落ち着いたので帰って良いですよ」
看護師に呼ばれて中に入るとママが診察台に寝かされていました。
「ごめんね」
何度も繰り返すママ。
大丈夫だからと言ってタクシーを呼ぶために診察室をでました。
窓の外はすっかり明るくなっています。
タクシーが到着したので待合室に戻ると、パジャマ姿にガウンを羽織っただけのママが座っていました。
“小さくなっちゃたな”
鼻の奥がツーンとしてきます。
「帰ろう」
ママの手をとって病院を出ました。
2回目の抗がん剤治療の結果を聞く日になりました。
私も仕事を休んで一緒に病院へ。
予約をしているのに随分と待たされて、酸素の残量がなくなりそうになり慌てて交換してもらわなければなりませんでした。
こういった小さなことが病と共に生きている現実を突きつけてきます。
残念ながら2回目は大きな治療効果がみられず、3回目の投与は様子を見て行うことになりました。
「あきらめずに頑張りましょう」
先生に励まされた3日後、再び救急車を呼ぶことになったのです。
病院に到着したのは深夜。
そのまま入院することになり病室へ入ろうとすると
「他の患者さんに迷惑ですから静かに」
と看護師に冷たく言われました。
ママの携帯を忘れたのに気が付いて、一枚だけ財布に入っていたテレフォンカードをベット脇のテーブルへ置きました。
そのままタクシーで帰宅し2時間程寝て出勤準備をしていると携帯が鳴りました。
見ると非通知表示になっています。
ママからでした。
薬を忘れたので出社前に届けてほしいとのこと。
着替えも準備して病院へ行くと少しだけ顔色が良くなったママが待っていました。
「本当にごめんね」
最近のママは謝ってばかりいます。
携帯を渡していつでも良いから電話をするように伝えて出社しました。
残された時間
私は仕事を休めない状況にありました。
急な人事異動で別の部署への配属が決まっていたからです。
最悪のタイミングでした。
今の上司はママの病気の事も私の手術の事も親身になって相談にのってくれます。
急に休むことになっても嫌味一ついう事なく、仕事の調整をしてくれる同僚にも恵まれていました。
今の環境だからなんとか介護と仕事を両立してこれたのだと思っています。
異動先ではまったく知らない人達の中で新しい仕事を覚えていかなくてはなりません。
“どうして私だけが”
次々と舞い込む不運を恨みました。
着任まで1週間しかありません。
業務の引き継ぎで毎日遅い時間まで残業が続きました。
「先生から話があるので、今日仕事が終わったら病院にきてください」
病院の看護師から会社へ電話が入ったのは夜中に救急車で運ばれてから3日後のことです。
「今日ですか?」
病院というのはいつも一方的でこちらの都合なんか考えてくれません。
「何時になっても良いので」
そう言われて鼓動がどんどん早くなります。
良い話ではないことは確実でした。
仕事を終えて病院についたのは20時過ぎ。
部屋に通されて先生の顔を見た瞬間、嫌な予感が的中したと思いました。
若くて童顔の先生は良い意味で医者らしくない雰囲気を漂わせた人物です。
その先生が硬い表情で、余命が半年・もっても一年だと告げました。
覚悟はしていてもママがこの世界から去る日が近づいているという現実を受け止めきれませんでした。
「母はこの事を知っているのですか?」
「ご本人の意思で先にお伝えしてあります」
一瞬の間を置いて先生が答えました。
それを聞いてめまいがしそうになりました。
自分の残された時間をどんな思いで聞いたのだろう。
想像しただけでも胸が張り裂けそうになりました。
病院を出て外からママの病室を見上げると、まだ明かりがついていました。
“まだ起きているのかな”
面会時間が過ぎているので今日はママに会えません。
仮にあえる時間だったとしても顔をだすことはできなかったでしょう。
自分があとどれくらい生きられるのかわからない。
この瞬間も不安な夜を過ごしているのかと思うと可哀想で涙が止まらなかったからです。
この先私の人生でおこる予定の全ての不幸が一度に起こったような気持ちでした。
心の治療、緩和ケア
異動先には知り合いもなく、まるで転職したかのようでした。
着任の挨拶をしたものの、3日後には左目の手術でしばらく休まなければなりません。
言い出しづらかった私に代わって、前の部署の上司が異動先へ事前に伝えてくれていました。
手術の朝、今回も一人で病院に向かいます。
今日は見送ってくれるママがいませんが、一回目のような緊張はありませんでした。
無事に手術が終わり帰宅してしばらくすると、麻酔がきれてきたせいか目の奥がズキズキします。
起きていても片目では何もする気にならなくて早めに休む事にしました。
翌日病院へ行ってガーゼを取ってもらっても少し痛みが残っています。
頭痛までしてきたので念のため病院に行くのを控えるとママへ電話しました。
「無理しないで良いから少し休みなさい」
私に心配をかけまいとしてなのか、強い口調で言って電話を切っていきました。
2日後の朝すっかり頭痛もおさまったので美容室に電話をかけました。
まだ自分でシャンプーができなかったからです。
幸いにも午前中に空きがあるとのこと。
11時に予約を入れその後は病院へ行くことにしました。
久しぶりに会うママは同室の方とも仲良くなって楽しそう。
ここでも社交的な性格が大活躍です。
この日は緩和ケアの先生にお会いすることになっていました。
緩和ケアとは身体や心の痛みを和らげるための治療です。
積極的ながん治療が難しくなったときに医師から勧められる場合があるのだそうです。
私はこのような治療があることを初めて知りました。
「病院の提案で緩和ケアを始めたの。とても素敵な先生だから今度紹介するわね」
電話口のママは友達を紹介するみたいにウキウキしています。
「こんにちは」
体格のよい男性と透明感のある小柄な女性が病室に入ってきました。
緩和ケアの先生と看護師の方でした。
「お母さん。頑張ってるよ」
先生がママの隣に座るとベッドがほんの少し傾いて、二人は寄り添うようになりました。
包み込むような存在感。
先生がいるだけで病室の空気がほんのりと温かくなったような気がしました。
医師というよりはメンタルのプロといった感じです。
「看護師のSです。何かあったらどんな事でも相談してくださいね」
Sさんも又、自然と人を安心させるような不思議なオーラを持つ女性でした。
「いつも母がお世話になっております」
お礼を言って頭を下げました。
「娘さんも無理しすぎないように」
私の肩をポンポンと叩いて病室を出ていく先生の後ろを感謝の気持ちで見送りました。
“ママは残された時間をどう過ごしたいのだろう”
先生に余命を聞いた夜の事を思い出しました。
私から切り出してみようかと思っても、なかなか口に出せませんでした。
その日の帰りにユニクロに寄ってスウェットを何着か買い込みました。
しばらく外出ができないママに着てもらうためです。
翌日病院へ持って行って着替えさせると色白の肌にピンクが映えています。
「あんたも黒ばかりじゃなくて明るい色を着なさい」
よくそう言われたものでした。
左目の手術から一週間経ちました。
術後の経過は良好で、専用の眼鏡も外して良いと許可がでました。
外は晴天。
見上げると雲ひとつない青空が広がっています。
黄色かった景色は水で洗ったようにキラキラしていました。
“世界が変わった”
本気でそう思いました。
桜の季節を前に
翌日の木曜日、異動後の職場へ復帰しました。
そこには以前の部署とは比べものにならない数の人がいました。
お詫びのお菓子を配るにも、誰が自分と同じ仕事をするのかすらわかりません。
”とりあえず頑張ってみよう”
そう思ったのも束の間でした。
翌日の金曜日仕事が終わり携帯を見ると病院から着信が残っていました。
折り返すとママが帰宅を強く希望しているのですぐに迎えにくるようにとのこと。
時間は20時30分。
病院についたのは22時を過ぎていました。
看護師が言うにはママが酸素チューブをはずしたことに注意をしたところ、急に退院すると言い出したというのです。
事実かどうか問いただすつもりはありませんでした。
ママが帰りたいなら連れて帰れば良い。
病院へ向かいながらそうしようと決めていました。
「遅くなってごめんね。お家に帰ろう」
私服に着替えて待っていたママをつれてタクシーで帰宅しました。
時間はすでに日付が変わろうとしています。
家へ戻っても私は何も聞きませんでした。
ママは膝のうえにハナをのせて寛いでいます。
元の生活に戻ったような時間。
それも長く続かず2日後の日曜日、再び強い痛みをうったえたため救急車を呼びました。
「こちらの注意を聞いていただけない患者さんには入院していただきたくありません」
病院に着くなり看護師に言われ耳を疑いました。
くやしい。
でも泣けない。
ママの前では絶対に。
「トイレに行ってくる」
と言って部屋を出て一番遠くの階段へ走りました。
胃のもっと深いところにある袋のようなものが破けたように涙が止まりません。
「大丈夫?」
緩和治療の先生でした。
事情を話すと「申し訳なかった」と頭を下げて、看護師には注意すると言ってくれました。
少し落ち着いてから一緒にママの病室へ戻りました。
担当の先生とも相談して今日は帰宅して様子をみることに。
帰宅後のママは昼間の症状が嘘のようにおさまり、本当に病人なのかと疑うほど元気です。
夕食の準備をしていると酸素チューブをつけていてガスに近づけないママが、部屋の奥から調理の指示をだしてくれます。
調子が良いのか大好きなお酒も少しだけ飲んで目のまわりを赤くしています。
“やっぱり家が良いんだな”
当たり前のことでした。
“どうして早く決められなかったんだろう”
「会社へ在宅介護の申請をするね」
気持ち良さそうに寝息をたてるママへ声をかけました。
3月も終わり。
もうすぐ桜の季節です。
永遠の別れ。天涯孤独になった一人っ子
早く!早く!
翌朝介護申請の書類を送ってもらうために異動前の上司へ電話をいれました。
数日しか出勤していない現職場には相談しづらかったからです。
在宅介護を決めたことを相談すると全ての手続きを引き受けてくれることになりました。
助けてくれる人がいることの有難みが身に沁みます。
電話を終えると高校生時代の友人からメールが届いているのに気がつきました。
“結婚することになりました”
お祝いと相手を尋ねる返信をすると
“嘘です。今日はエイプリルフールでした”
腹が立って思わず携帯をソファに放り投げました。
友人のお母さんはママと歳が同じで4人で出かけたこともあります。
ママの病気で悪戦苦闘している自分とは、あまりにもかけ離れた呑気なメールに返事をする気にもなれませんでした。
ママは私が側にいないと落ち着かないようです。
買い物に出るのにも一苦労で、30分以上は一人にできません。
その日は叔父夫婦がお見舞いにくる事になっていました。
介護認定の申請手続きに行きたいと相談すると叔母がママと一緒に留守番をしてくれることになりました。
叔父に市役所まで車で送ってもらい無事に手続きを済ませ自宅へ戻ると、ママと叔母がお茶を飲んでいます。
叔父はママの弟です。
叔父の妻である叔母は、偶然にもママと年齢も名前も同じでした。
“運命というのは何を基準にして決まるのだろう”
元気そうな叔母を見てそんな事を考えていました。
夕食はママのおごりでお寿司をとることになり、叔父夫婦と一緒にすごしました。
これが自宅での最後の食事となります。
翌日再び救急車で病院へ戻ることになったからです。
在宅介護の手続きが済むまで入院を認めると言われました。
できる限り私が側にいる事が条件でした。
狭くて暗い個室。
こんなところにママをいつまでもおいておけない。
早くなんとかしなければ。
在宅介護の手続きと平行してホスピスも探すことにしました。
病院から出られる手段があるなら、片っ端からあたってみようと思ったからです。
ソーシャルワーカーの方に病院近くのホスピスを紹介してもらう事になり、翌朝ホスピスを訪ねました。
担当の方へ状況を話しているだけで涙が止まらなくなります。
「なるべく早く入居できるように手配しますね」
お礼を言って病院へ戻ると、廊下の向こうから緩和ケアのSさんと一緒にママがこちらへ歩いてくるのが見えました。
「もう少しだよ」
とママへ伝えます。
早く!早く!
焦りだけが高まっていきました。
これ以上苦しませたくなかった
私は一日のほとんどを病院で過ごしました。
毎朝7時に家を出て戻るのは23時過ぎ。
ハナがいることでなんとか帰宅を許可してくれていました。
そうでなければ一時帰宅すらできなかったかもしれません。
4月に入り病院の中庭では桜が見頃を迎えていました。
気分転換にママを連れて外へ出ると、桜の花びらが風でヒラヒラと舞ってとてもきれいです。
私はこの時初めて最後の時をどう迎えたいのかママへ尋ねてみました。
「あんたに任せる」
そう言うとピースサインをしながらニマッと笑いました。
ママには疎遠になった妹が一人います。
話せるうちに会わせておいた方が良いと判断して従弟に連絡すると、週末に皆で行くからと返事があり今日がその日でした。
約束の時間を5分過ぎただけで
「遅いわね。どうしたのかしら」
と言って病院玄関まで迎えに行くと言い出す始末。
私のせっかちは間違いなくママ譲りだと実感します。
見てくるからと伝えて病室で待つように説得しました。
親戚達が到着して部屋へ入るとママはベットから身体を起こしていました。
背筋をピンと伸ばしてこちらを向いています。
「忙しいのに悪かったわね」
長女らしく落ち着いた声。
「心配しなくて良いから」
弱さを見せたくなかったのかもしれません。
叔母を気遣うママは凛とした姿でした。
その夜異変がおこります。
病状が悪化しママは一晩中うなされました。
翌朝医師から余命3日と告げられます。
そのうえで苦痛を和らげるための鎮痛薬を投与するかどうかの決断を迫られました。
薬の投与により鎮静状態になり、会話ができなくなる可能性がある。
即ちそれは死を待つことであることも説明されました。
その辛い決断を一人でしなくてはなりません。
“これ以上苦しませたくない”
私は鎮痛剤の投与をすることに決めました。
処置の間、私は病室の外に出て窓の外の桜を見ていました。
2日前にママと見た桜の花びらが風でまっています。
別の部屋からお見舞いに訪れた家族と楽しそうな話し声が聞こえてきました。
私はその場にしゃがみこんで顔を覆いました。
抑えようとしても嗚咽を我慢できません。
背中が温かくなったのを感じて顔をあげるとSさんが立っていました。
何にも言わずに、うんうんと頷いています。
「お母さんのところに行ってあげましょう」
促されて病室に戻ると点滴につながれたママがいました。
眠るように閉じられた眼が開くことは二度とありません。
選んだのは私自身。
「いつ急変するかわからないから今晩からは泊まり込んでください」
作業を終えた看護師に告げられました。
南国の風
「又顔を見にきますからね」
Sさんが優しくママに話しかけて病室を出ていきました。
しばらくの間ベットのすぐ隣に椅子を置いてママの横顔を見つめていました。
時折苦しそうな呼吸を繰り返しています。
私はウォークマンを出してポータブルスピーカーにセットしました。
ママの耳元に置き音量を小さくして再生ボタンを押します。
聞こえてきたのは”ハナレイムーン”
二人で習っていたフラダンスの曲です。
私は仕事でレッスンを休みがちで、気が付いたらママの方が上手になっていました。
自宅で何度も練習したのが昨日のことのようです。
ママの爪の手入れをしていると、少しずつママの呼吸が穏やかになっていくのがわかりました。
まるで昼寝でもしているかのようです。
ガラッとドアが開いて看護師が入ってきました。
”怒られる”
目を閉じて覚悟していると
「南国の風が吹いているようね」
点滴を交換をして出ていきました。
それから2日間、病室に寝泊りしました。
気にかかるのは家に残してきたハナのことです。
留守にする事が多くはなりましたが、こんなに長い時間一人にさせた事がありません。
心細くて「ギャー、ギャー」と泣いているのではないか。
お腹を空かしてカラのお皿を除くハナを想像したら居たたまれなくなりました。
飼い猫の様子見に行きたいので一時帰宅したいと看護師に相談すると
「不在の間の責任はとれませんけど、それでもよろしければ」
と冷たく返されました。
部屋に戻ってどうしようかと考えました。
私にはハナのことを頼める家族も友人もいません。
入院中のママはいつもハナを心配していました。
“ハナのためにも早く元気にならなくちゃね”
自分に言い聞かせるように呟いていたのを思い出します。
「私はまだ大丈夫だからハナをお願い」
まだ話すことができていたらママはこう言ったに違いない。
2時間以内に戻ると約束して病院を出ました。
自宅に帰ると案の定お皿はカラッポ。
珍しく玄関まで走ってきたハナを抱き上げました。
喉をゴロゴロと鳴らしています。
3日分の缶詰をお皿に入れて、一番大きなボールに飲み水を入れました。
ハナのトイレを掃除して手を洗っていた時、2日もお風呂に入っていなかったことを思い出しました。
次はいつ帰ってこれるかわかりません。
さっとシャワーを浴びて濡れた髪のまま家を出ました。
準備万端
戻り次第ママが亡くなった後の準備を始めました。
“まだ生きているのに”
誰もやってくれないのですから、そんな事は言っていられません。
携帯で各社のホームページを見てもどこに頼んだら良いか全くわかりませんでした。
結局祖母の葬儀を手配 した葬儀会社に決めて電話をして状況を伝えると、24時間いつでもかけつけてくれるとのことでした。
その翌日の未明。
「間もなくです」
うとうとしていた私は様子を見にきた看護師に起こされました。
心電図の動きが少しずつ弱くなってきています。
やがて破線はピクリとも動かなくなりました。
「よく頑張った。準備万端だね」
得意のピースサインをするようにママは静かにこの世を去りました。
不思議と涙は出ませんでした。
“最後を看取る事ができた”
ホッとした気持ちと同時に脱力感を感じました。
“お着換えしますから引き取りの準備をしてください”
看護師の声にせかされながら葬儀会社に電話をかけました。
車が到着しそのまま事務所へ向かいました。
葬儀の相談をするためです。
日程はもちろん棺もお花も料理も全て一人で決めました。
6時になるのを待って叔母へ連絡をすると
「姉ちゃん、早すぎるじゃない」
電話の向こう側からドラマのワンシーンのような泣き声が聞こえてきました。
“あの人は昔から大げさなのよ”
そう言ってママが笑っていたのを思い出します。
葬儀まで数日あるのでママを葬儀会社で預かっていただくことになりました。
担当の方のご厚意で自宅迄車で送ってくださることになり、ピカピカの太陽が顔を見せ始めた朝7時にようやく帰宅。
「ママ天国に行ったよ」
共に戦ってくれた小さな家族を抱きしめてました。
ハナの食事と水を新しいものに交換してお風呂にお湯をはりました。
身体を沈めているとどっと疲れがでてきます。
ビールを開けて冷凍庫にあった残りものをレンジで温めて食べました。
料理が苦手な私のためにママが用意してくれていた作り置きでした。
“どんな時でもお腹はすく”
最後の外食の時。
豪快にビールを飲むママの顔が頭に浮かびます。
そのまま泥のように眠って目が覚めたのは昼過ぎでした。
葬儀
目が覚めてすぐに勤務先へ忌引きで引き続き休みたいと連絡しました。
家族葬なので参列を辞退することも伝えました。
改めて詳細を決めるために葬儀会社へ向かいました。
当日迄にやらなくてはいけないことが盛りだくさんです。
遺影の準備・お坊さんの手配・参列者への連絡。
何をするにもわからない事だらけでしたが、グーグルで調べれば答えは見つかりました。
保険会社・銀行・年金の解約手続きも進めていきます。
ママの存在を少しづつ消していくようで油断をすると涙が止まらなくなりました。
とにかく黙々とこなしていくしかありません。
葬儀は親戚だけで行うつもりでした。
悩んだあげくママが経営していたお店の常連さんへ連絡することにしました。
10年以上もお会いしていないので迷惑かとも思いましたが、ママの逝去を伝えると心から悲しんでくださり葬儀に参列したいと言ってくださいました。
葬儀の当日はとても良いお天気に恵まれました。
親戚達が到着し家族で談笑してます。
少し離れたところに座っていると名前を呼ばれて振り返りました。
お店の常連の方々でした。
数年ぶりに顔をみた瞬間一気に時間が巻き戻されたようでした。
お店で過ごした過ごした日々が鮮明に蘇ってきます。
「一人で大変だったね」
私達親子をよく知る皆さんが労いの言葉をかけてくれます。
「お忙しい中ご参列ありがとうございます」
ママも喜んでいると思いますと感謝を伝えて頭を下げました。
私は葬儀の間ずっと祭壇の遺影を眺めていました。
笑顔で写っているものが少ない中でようやく見つけた写真です。
薄いピンクの背景に装飾され、うっすらとほほ笑むママはとても綺麗でした。
ふと見ると焼香客の中に会社の先輩の姿があるのに驚いて会釈をしました。
「家族葬だから迷ったんだけど、近くだし行こうかってことになって」
こっそり焼香だけして帰るつもりだったと後から伺いました。
既にお母様を亡くされたお二人です。
ここでも又、優しい心遣いをいただきました。
葬儀も終盤となり、私は喪主の挨拶をするためマイクを渡されました。
その瞬間半年の出来事が頭に浮かんできて声が出せませんでした。
残念ながら私には肩を抱いてくれる伴侶がいません。
ママの遺影を見上げて大きく深呼吸をしてから、前の晩寝ずに作ったメモを読みました。
「最後のお別れです」
棺へお花を入れ終えると司会のアナウンスがありました。
思わず棺に駆け寄っていました。
私の事を一番に考えてくれたママ。
道を間違えないようにいつも私の手を引いてくれていたママ。
今この手を離したら本当に一人になってしまう。
怖くて心細くてママから離れることができませんでした。
気が付くと常連客の方に腕を支えられて立っていました。
終わりに
ママが肺がんになり亡くなるまでの6ヶ月の記録を綴りました。
強くて常に私の後ろ盾になってくれたママが病気になり、一人っ子の私がなんとか支えようと奮闘します。
強くならなきゃ、頑張らなきゃと思っていても実際には泣いてばかり。
仕事を言い訳にして優先すべきことを見失っていました。
“もっと早く在宅介護の準備を始めていれば”
”もっと早くホスピスの情報を集めていれば”
今も後悔が頭をよぎります。
ハナにも寂しい思いをさせてしまったと思っています。
ペットシッターというサービスがあることを私は後から知りました。
一人で全てを抱え込もうしたことが、結果として空回りしていたのだと思います。
クリスマスソングが流れる商店街をうつむきながら歩く病院からの帰り道。
医師からママの余命を告げられた寒い夜。
ママの最後を決める決断。
そして息を引き取る瞬間。
私はいつも一人でした。
それでもどうにか前へ進もうとする私の姿がそこにはありました。
コミュ障の私に差し伸べてくれる手があったからです。
会社の上司や同僚、緩和ケアの先生やSさん。
私の周りには助けてくれる人がいました。
皆さんの手をお借りすることで頑張ってこれたのだと思っています。
葬儀に駆けつけてくれたお店の常連のお客様達、会社の先輩方。
感謝の気持ちは言葉で言い尽くせません。
一人っ子の私は唯一無二のママを亡くして天涯孤独になりました。
この先の人生これ以上に辛いことはもう起こらないと思っています。
私には家族がいません。
でも支えてくれる人達がいます。
だから天涯孤独であっても孤独感はありません。
「人は一人では生きていけない。だから普段から人との関係が大切なんだ」
ママとの闘病生活はこの事を私に教えてくれたのでしょう。
今度は私が誰かの役に立ちたいと思ってこの記事を書く事にしました。
家族の病気で不安を抱える方へ私の力戦奮闘を知っていただきたかったらです。
この記事に着手した当初は半年間を時系列にした短い内容にするつもりでした。
過去のカレンダーを見て記憶をたどっていると、その時の光景が鮮明に浮かんできます。
ママとすごした時間。
私の気持ち、その時の行動。
辛くて手が止まることもありましたが、小さなことでも全て残そうと書き進めているうちにこんなに長文になってしまいました。
内容は決して模範となるものではありません。
ダメな例として “こんな風にはなりたくない””自分はもっとできる”と感じて皆さんの参考にしていただければ幸いです。
長文にも関わらず最後までお読みいただきありがとうございました。