一卵性親子
私は母の事を”お母さん”と呼んだ事がありません。
幼い頃から大人になるまで、ずーっと”ママ”と呼んできました。
彼女が経営するカレーショップでは、常連のお客様から”ママさん”と呼ばれる姿をみてきたので”ママ”と呼び続けることに抵抗がありませんでした。
好奇心旺盛で社交的。
そんな性格から若いお客様とも仲良く、続く会話に飽きることがありませんでした。
思春期の頃に一度だけ、まわりの同級生達の様に”お母さん”と呼んでみた事がありました。
「お母さん?私の事?」とママに返されて依頼、お母さんと呼ぶのはやめました。
「まるで一卵性親子だね」
まわりの人からそう言われる程、ママと私は仲良しでした。
母子家庭の我が家では父であり姉であり親友のような存在。
高校を卒業するまではお風呂も一緒。
好きな人の事、進路のこと。
悩み事を相談する時は大体お風呂の中でした。
「あんたなら大丈夫!」
誰よりも自分に厳しく、決断力のあるママの言葉に何度も背中を押されてきました。
趣味趣向が似ているので行きたいところも食べたいものも同じ。
買い物も外食もいつも一緒でした。
「今日は何を食べる?」
目をキラキラさせるママの顔が忘れられません。
書こうと思ったきっかけ
そんなママが亡くなって今年で10年経ちました。
来月の4月で10回目の命日を迎えます。
ママと過ごした時間を書いてみようと思ったのはブログの下書きがきっかけでした。
持たない暮らしをテーマに、いざ書こうとするのですが全く指が動いてくれません。
伝えたい言葉が文章におとせない。
当然といえば当然でした。
もともと文章を書くことが苦手でメールですら返信内容に悩むほど。
少し書いては消しを繰り返す事1時間。
「日記のように書いてみよう」
頭を切り替えて選んだのは、ママが癌と診断されてから亡くなるまでの事でした。
半年の出来事を時系列に書きはじめてみたらキーボードを打つ手が止まらなくなりました。
10年も前の事なのに自分でも驚くほど鮮明に残る記憶は辛い事ばかり。
油断すると泣きそうになるので無心に指を動かし続けました。
最後まで書き終えたのは5時間後。
明るかった外はすっかり暗くなっていました。
ママの記憶
生まれてはじめて書いた長文を読み返してみると、そこには孤独や不安を抱えながらも必死に奮闘する私の姿がありました。
けっして長くはない半年。
この半年は本当に辛かった。
誰にも頼れず全ての事を独りでやるしかなかったから。
それでも必ず元気になると信じて頑張っているママを支えてきたつもりです。
もっと早く在宅介護を決めていれば、寂しい病院で最後を迎えさせずに済んだのに。
もっと早く介護休暇を選択していれば、もっとママの側にいてあげられたのに。
ママが亡くなったあとは後悔ばかり。
全てが間に合わなかった私の決断の遅さを責めて生きてきました。
命日は思い出の場所や、生きていれば連れて行ってあげたかった場所を訪れました。
100回以上になる月命日には何をしてあげたら良いのか今でも毎回悩みます。
お墓詣りに行って、ママが好きだったお酒や果物を供えたり少しだけ贅沢な食事をしてみたり。
何をしても何かが足りないような気持ちでした。
心のどこかで私だけが生きているという後ろめたさがあったのかもしれません。
目を閉じてママと過ごした時間を思う時。
楽しい思い出は沢山あるのに、辛かった半年の記憶が上書きされていくようになりました。
そして笑顔の代わりに寂しい表情が”ママの顔”になっていました。
i did it all for you
「そうしていたのは私自身だった」
そう気がつくのに10年も経ってしまいました。
ママもどんなに心配してきたことでしょう。
あの時の私は間違いなく全力で戦っていました。
「後悔なんかする必要ないんだよ」
文章の中の私自身が教えてくれたような気がします。
「i did it all for you」~あなたの為に頑張った~
この曲もまた、私を励ましてくれる大好きなビクターランドバーグの曲です。
私はこの半年間の記録を下書きではなくきちんと仕上げる事にしました。
この記事に辛かった記憶を全て吐き出せば、気持ちを整理できると思ったからです。
そしてこれからはママとの幸せだった時間を文字で形に残すことに決めました。
時には辛いことを思い出す事もあるでしょう。
そんな時にはママの言葉を思い出します。
「あんたなら大丈夫!」
私を全力で愛してくれたママの事。
私に残してくれた言葉。
忘れないように書き続けていこうと思います。
「i did it all for you」を聞きながら。